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第十一編 近づく創立百周年

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第一章 創立百周年に向って

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一 社会構造の変容と大学の社会的位置

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 昭和四十年、慶応義塾大学の授業料値上げ反対運動から燃え拡がった大学紛争は、既に第十編で述べたように、翌年には我が学苑にも火が及び、学生会館管理運営権をめぐる問題などとも連動して一層激しい展開を見せた。相次ぐ大学紛争の天王山ともなったのが四十三年の東大闘争、いわゆる安田講堂の攻防であった。「慶応ボーイ」の名で親しまれ裕福な家庭の子弟が通う大学と一般には考えられていた慶応義塾大学から、学費値上げをめぐる紛争が起り、庶民の子弟の大学というイメージを持つ学苑が、学生会館管理運営という生活の匂いから離れた問題で紛糾し、社会的エリートの養成所とされてきた東京大学で大学解体を叫ぶ運動が展開したところに、大学紛争の歴史的重さがあった。しかし、何よりも、一大学にとどまらず全国的に問題が噴出したところに、紛争の深刻さと底の深さ・広さを見ることができる。

 いずれにしても、四十四年、新年度を迎えてもなお休校、授業放棄、または施設占拠、封鎖等が行われている大学が国立三十四大学、公立四大学、私立八大学に及び、二万二千人余の新入生が自宅待機の状態に置かれ、更に、これら新入生を含めて十万人余の学生が授業を受け得ない状況が生れた。まさに社会問題の発生である。この異常事態に対処するため、四十四年四月三十日、中央教育審議会(中教審)は、「当面する大学教育の課題に対応するための方策」を文部大臣に答申した。これは、紛争処理に対する文部大臣の権限強化をはじめとする臨時特別立法の方針を示したものである。そして五月二十四日、「大学の運営に関する臨時措置法案」が国会に提出された。ここに至って大学紛争は社会問題から勢い政治問題へと化した。法案提出に当り政府は次のような声明を出している。

政府はもとより、学問の自由と学園の自治を尊重するものであり、その立場において大学当局者の紛争解決への自主的努力に期待し、助言と指導によって紛争解決への努力を重ねてきた。しかしながら、現在の大学紛争の原因は根深く、社会的、政治的要因もこれに加わって、事態の収拾を困難にしている。とりわけ、国民の負担によって経営されている国立大学において、紛争の長期化しているものが多いことは、まことに遺憾にたえない。今日の大学紛争は、わが国だけの問題でなく世界の先進国の共通の悩みというべきものであるが、暴力と破壊から真の創造を期待することはできない。国民世論はあげて、すみやかな学園の正常化を求めている。……政府は、先般の中教審の答申の趣旨にそい、行政上の措置を講ずるとともに、国民的立場に立って各政党の意見をも聞き慎重に検討した。この結果、暴力については現行法できびしく取締ると同時に、当面の紛争終結に関する大学の自主的な努力を助けることを主眼とした臨時の立法措置を講ずることを決意した。これは、すみやかに紛争を収拾し、正常な入試、授業、卒業を行なうことができるよう大学の自治機能を回復するためのきわめて限定された法案である。 (野村平爾・五十嵐顕・深山正光編『大学政策・大学問題――その資料と解説』 七三―七四頁)

 国会は、この法案の審議をめぐって与野党の間で対立が続き、混乱状態が続いた。しかし、八月三日、参議院における自由民主党の強引な採決によって可決、成立を見、大学に対する政府の統制強化のための「大学立法」として「大学の運営に関する臨時措置法」(法律第七十号。以下「大学運営臨時措置法」と記す)は施行されることになった。その内容と施行以降の文教政策については次節で触れることにし、以下では、紛争期から昭和五十年代初頭にかけての学生や大学の置かれた状況について述べよう。

 前掲政府声明が指摘する「現在の大学紛争の原因は根深く、社会的、政治的要因もこれに加わって、事態の収拾を困難にしている」、「大学紛争は、わが国だけの問題でなく世界の先進国の共通の悩みというべきものである」という指摘は、紛争を歴史的に提起された問題と解釈すれば正鵠を射ている。世界史的、国際社会的視野から見れば、紛争は、パリのカルチエ・ラタンでの大騒乱や中国の文化大革命、ヴェトナム戦争、更には、メキシコやタイの大学紛争とも通底した、グローバルな問題として生起した点があったことを看過することはできない。また、大学紛争を伝統的権威に対する「若者の叛乱」と広く把えれば、まさにこの時期は、K・ローレンツの述べるように、「伝統の崩壊である。伝統の崩壊は、若い世代がもはや古い文化的伝統とうまく和解できなくなり、ましてやそれと一体化することができなくなる臨界点に達することによってひきおこされている。そこで若者たちは古い世代を『異教徒集団』のように扱い、それに国家的憎悪をもってたちむか」った(K・ローレンツ著、日高敏隆・大羽更明訳『文明化した人間の八つの大罪』一二四頁)時代でもあった。

 日本において生起した大学紛争も、「戦後大学改革の残した未解決の課題と、高度成長政策のもとで新に露呈してきた諸矛盾とが重なり合うなかで、それへの批判としてすすめられた」(大学問題検討委員会編『日本の大学 その現状と改革への提言』六二頁)点があったこと、換言すれば、従来の価値基準への挑戦という意味を帯びていたことを、認めなければならないであろう。まさに教育的のみならず社会的・政治的要素の加わった根の深い問題として大学紛争は起ったのである。

 高度経済成長下の問題との関連で述べれは、次のようなことが指摘できる。昭和三十年代中頃より軌道に乗った高度経済成長によって、やがて我が国には大量生産・大量消費社会が実現し、「豊かな社会」が確かに形成された。そして当然のことながらこのプロセスは、従来の社会構造を大きく変え、人々の価値観や意識を一変させた。先ず、社会構造に関して言えば、少数エリートと大衆という、真ん中のくびれた「ひょうたん型」社会構造から、新制高校卒業を中核とする人々が社会の中間層を占める「ちょうちん型」へと変り、またこの変化は、「伝統的左翼が信奉した『窮乏化』論を突き崩」す(『毎日新聞』平成七年八月十二日号「社説」)とともに、平穏無事な小市民的生活を希求する意識を国民に芽生えさせ、増殖させた。ミーイズム(私中心主義)やマイホーム主義(家族中心主義)という言葉が氾濫するに至ったのである。そして「長寿化」が加わり、この傾向はその後ますます顕著になっていくが、ではこのような状況は、大学に何をもたらしたのか。きわめて大きくまとめれば、それは「大学の大衆化」と「大学の社会化」ということである。

 先ず、前者「大学の大衆化」は、国民諸階層、多種多様な人々が大学に進学するようになったことを意味するが、このことにより次のような状況が生れた。第一は、大学進学志望者の意識が大きく変化したことである。端的に言えば、明確な目的意識を持って大学に進学する学生がきわめて少くなったということである。すなわち、大学進学を可能にした生活水準の向上、高等教育を受けることのできなかった親が自らの苦悩や苦労を味わわせたくないとの思い、ないしは自己の果せなかった夢を子供に託すことから生れた教育熱などの結果、大学進学への道は特定の階層に付与された特別な選択肢ではもはやなくなったのである。大学大衆化という歴史的課題を担うことになったのが、戦後、続々と設立された私立大学である。しかも、経営本位主義に立脚した私立大学は、大学進学希望者の増大を双手を挙げて歓迎した。そして、大学に入学しさえすればそれでよしとする風潮が拡がったため、私立大学の建学の精神や学問的土壌や伝統的風土に共鳴して進学する者は、皆無とは言わないまでも、きわめて少数になった。

 第二に、右の第一のことから、学生の意識が大きく変化したことである。学問を究めるという知的好奇心を強く持った、あるいは専門の職業に就くための教養や専門教育を求めるといった学生は少くなり、学生の関心は専ら自己の世界か、その周辺の私的な領域・問題に寄せられるようになった。従って、政治や社会の矛盾・不合理性に眼を向けて怒りを表す姿勢は薄らぎ、知のシンボルと認識されていたイデオロギーは、もはや「信条や行動の規範から知的領域の選択に変わり」(前掲社説)、その結果、「全共闘運動」は支持基盤を失い、セクトの対立のみが大学内外で尖鋭化し自己崩壊していったのである。全体としてこの状況下に蔓延したのは、学生の「政治的・イデオロギー的アパシー」であった。この現象を若者論として積極的に把えれば、彼らはライフスタイルから音楽、演劇、文学活動など文化的諸分野において既成の概念や発想を破ったさまざまな新しい若者文化の造形者となっていったのである。また昭和五十年代中・後半には、いわゆる「新人類」社会を生み出すに至るのである。新人類の特色としては、一般に、「前世代より総てにガツガツしていない。ウソがない。すずやかでやさしい。戦後民主主義をふくめ『大義』をほとんど信じておらず、人類の未来にあまり希望を持っていない。美意識が行動や思考の軸となっており、自分の回りを演劇的空間と見なしている傾向が強い」(筑紫哲也編『新人類図鑑 PART2』二〇六頁)と言われた。

 第三に、以上のような学生の集団から、大学の社会的位置が大きく変貌したことである。大学は、人生や社会への出発点として思索し自己を研磨する場所ではなくなり、受験というハードルを最終的にクリアーした到達点となった。ここでは目標を達成したという思いゆえに三つのタイプの学生群が生れた。その一は、入学後の目標を自ら設定することができず、虚脱状態に陥り無気力・無為な生活を送る者、次は、受験競争の勝利者としての意識を持ち、楽しみと憩いの日々を送る者、その三は、大学を職業斡旋所と看做し、自己の進路に直接つながる知識やスキル修得の場を、大学よりも寧ろ専門学校などに求め、いわゆる二重学籍者となる者である。勿論、真摯に学問研鑽に努める学生も多くいるが、以上のような傾向が顕著になったことは否定できない。大学のレジャーランド化が指摘されたのも、このような状況を反映したものであった。

 第四に、学生の意識と生活の変化の結果、大学存立の理念としての「教養主義」が大きく減衰したことである。例えば、大学生の愛読誌の変化からこの事実を検証した筒井清忠は、「以前は『中央公論』や『世界」のような総合雑誌であったものが、昭和四十年代中葉の『朝日ジャーナル』と『少年マガジン』の併読がいわれた過渡期を経て、四十年代後半からは『ぴあ』のようなエンタテインメント情報誌や、ポピューラーミュージック誌・スポーツ誌・カー雑誌など、各種の個別エンタテインメント雑誌へと変貌していった」(『日本型「教養」の運命』一〇七―一〇八頁)と述べ、昭和四十年代に入ると学生文化における教養主義の影響力が減退し、五十年代にははっきりと衰退化現象を見せるに至ったことを指摘している。

 概して「教養」という表現には、(一)専門に対する基礎としての学識、(二)幅広い知識としての学識、(三)哲学、歴史、文学などの総合的知識すなわち人文的学識、という内容が含意されており、総じて教養主義は人格主義に通じ、それは「個人の人格を認めない古い不寛容な伝統的保守的文化に対しては革新的機能を果」すとともに、「学歴エリート文化となることによって、大衆に対しては差異化の機能も果」してきた(同書 一〇八頁、一七三―一七五頁)のである。勿論これは人間の価値の問題ではない。大学の果してきた社会的役割の問題であって、従来の大学はこのような「教養」を修得する場として一定の位置を占めてきたのである。しかし、高等教育の大衆化はこの歴史を大きく変えた。

 次に、「大学の社会化」という問題であるが、これは大学が生涯教育、社会人教育など、多様な教育機能を果すように要請されるようになったことを意味する。換言すれば、大学の社会的開放が求められるようになったということであって、このような要望者は、類別すると次のように分けられる。一つは、経済的・社会的理由により高等教育を受けることができなかったか、あるいは向学心を妨げられてきた人々で、年齢とは関係なく学習意欲に燃えている者、その二は、高等教育を既に受けてきたが、更に新時代の科学・文化を身につけることによって自己の修得した知識をリフレッシュし、更には積極的に学習しようとしている勤労者、その三は、高齢化社会を迎える中で、退職後または再就職時を過ぎてもなお学習欲求を強く持った高齢者である(『日本の大学 その現状と改革への提言』三七頁)。学士入学あるいは聴講生の増加は、この事例の一端を示すものである。

 では、以上の事実によって大学にもたらされた問題は何か。箇条書きに記せば、それは以下のような点である。第一は、カリキュラムの改変など授業内容の再編である。大学の大衆化は、従来の自学自修を前提とする「フンボルト大学式の『孤独と自由』を原則として成り立っていた」(喜多村和之『大学への旅――体験的比較大学考――』一七頁)戦前型のエリート主義時代の大学の崩壊を意味するだけでなく、高等教育を広く国民に開放し、専門に偏らない広い視野と総合的視点を持った教養人の育成を目指した戦後の大学教育のあり方にも変更を迫ることになった。いわば大衆型大学像の造形と、その意識に基づく新たな大学の構築が求められるに至ったのである。別言すればマス型大学の創造である。エリート型大学からマス型大学への移行は、善悪の判断に属することではなく、歴史の流れとして認識すべきであろう。とすれば、学習意欲を欠く学生への対処をも視野に入れた多様な学習メニューの設定が求められるようになったことを、厳粛に受け止めなければならないのである。

 第二は、大学運営の民主化という問題である。大学を象牙の塔と自他ともに認識していた時代においては、組織や運営に多少不透明な部分があったとしても許容される雰囲気があった。しかし、もはや大学は、世俗からかけ離れた特殊な場ではなくなった。経理の公開という問題をも含め、風通しのよい、ガラス張りの社会であることが要求されるようになったのである。

 第三は、右に述べたことから、教職員の意識改革が必要となったことである。教員は、研究者としての任務を遂行し、その成果を教壇から単に述べればよいというものでは許されなくなった。何よりも教師として常に授業を自己点検し、学生の関心を読み取りそれに応えられる授業をしなければならなくなり、また学生のよき相談相手を務めなければならなくなった。すなわち、研究者としての任務と教員としての務めをバランスよく果すことが何よりも重要なものとなったのである。

 第四に、教員と職員には、公僕ならぬ学生への奉仕者という意識が求められるようになったことである。リースマンの言う「学生消費者時代」という理解であって、大学は一種の知的サーヴィス産業であるとの認識を持つことが必要となった。同時に教・職員には、大学の組織者としてともに対等な立場で民主的運営に携わることが要求されるようになったのである。

 第五は、社会人教育、生涯教育が可能な教育システムの構築という問題である。この問題は特に私立大学に要請されたが、私立大学側からすれば、社会的存立のためにも、このような要請に応えることが不可避となった。そのため、大学運営に当ってはさまざまな創意工夫が求められることとなったのである。

 以上のような状況が生れた中で、では、どのような大学論議が繰り拡げられたのか。「大学運営臨時措置法」の施行と関連させながら、次にこの問題について見てみよう。

二 「大学運営臨時措置法」の施行と大学論議

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 多種多様な学生を迎えることとなった「大学の大衆化」と、生涯教育、社会人教育など、社会的機能をより強く担うことを求められることになった「大学の社会化」という問題は、前節で見たように、既存の大学にさまざまな課題を投じた。「大衆化」を広義に把えれば、「大学の社会化」も、「大学の大衆化」の概念で認識することも可能である。では、大学大衆化時代を迎え、どのような議論が展開されたのか。「大学運営臨時措置法」が、論議を巻き起す一つの具体的契機となったことは確かなので、この法律について先ず述べよう。

 大学紛争が激変する社会の過渡期に生成・拡大した矛盾の一つの、しかし大きな表象と見るならば、政府・国家による対応の帰結が「大学運営臨時措置法」の施行であった。先に記した中教審答申や「大学運営臨時措置法」は、一見唐突に提出されたかのようにも見える。しかし、決してそうではなく、慶応義塾大学に始まり、早稲田大学に続く私学の紛争、そして東大紛争へと大学紛争が続発・拡大する中で準備され、成ったものであった。例えば、四十三年以降に策定された大学管理に関する主要な法案や政府の通達を見ただけでも、「学園内における不法事案に対する警備実施の暫定措置」(〔警視庁〕四十三年二月十二日)、「大学の教育機能停止特別措置法(案)」(同年七月二十二日)、「学生の暴力行動に対する措置について」(〔文部次官通達〕同年十月二十二日)、「東大七学部集会における確認書についての法律的検討(覚書)」(〔内閣法制局〕四十四年一月三十一日)、「学園における学生の地位について」(〔文部省〕同年三月)、「大学内における正常な秩序維持について」(〔文部次官通達〕同年四月二十一日)、「文部省所管国有財産取扱規程の一部を改正する訓令」(〔文部訓令第十号〕同年四月二十五日)、「大学紛争処理法案(〔文部省第一次案〕同年四月二十七日、〔同第二次案〕同年五月二十二日)、「当面する大学教育の課題に対応するための方策について」(〔中央教育審議会第二四特別委員会〕同年四月三十日)などが挙げられる。

 この間文部省は、紛争中の国立大学の予算をカットすることを決定(昭和四十四年四月十一日)、また日本育英会は、「紛争による留年大学生には奨学金支払いを停止する」ことを決める(七月十七日)など、経済的側面からの紛争沈静化を図っているが、では、「大学運営臨時措置法」とはどのような内容であったのか。

 佐藤内閣によって強行に施行された「大学運営臨時措置法」は、目的(第一条)、定義(第二条)、学長などの責務(第三条)、大学紛争の報告(第四条)、文部大臣の勧告(第五条)、運営機関等の特例(第六条)、教育等の休止および停止(第七条)など、全十三条付則六項より成るものである。目的については、先ず「大学紛争が生じている大学によるその自主的な収拾のための努力を助けることを主眼としてその運営に関し緊急に講ずべき措置を定め、もって大学における教育及び研究の正常な実施を図ること」と述べ、次いで「大学紛争」に関しては、学生による大学施設の占拠・封鎖、あるいは授業放棄など正常でない行為により、「大学における教育、研究その他の運営が阻害されている状態」(第二条)と定義づけた。

 同法の特色は、第一に、前記のような大学紛争が生じた場合、大学責任者は「直ちに文部大臣にその旨及び当該大学紛争の状況を報告しなければならない」と報告の義務を負うことになったこと(第四条第一項)、第二に、大学責任者は「紛争が生じている学部、教養部、その他の部局又は組織(以下「学部等」という)における教育及び研究に関する機能の全部又は一部を、六月以内の期間、休止することができる」(第七条第一項)とし、更に紛争が長引いた場合、文部大臣は当該大学の責任者の意見を聞いた上で「臨時大学問題審議会〔この審議会については同法第十三条で規定〕の議に基づき、当該学部等における教育及び研究に関する機能を停止することができる」(第七条第二項)と、休止・停止措置を採ることを可能とする「勧告」権を規定したこと、第三に、停止の措置が採られた場合、当該期間教職員は休職扱いとされて減給されるとしたこと、また学生に対しては育英会の学資貸与を行わないとしたことなどで、全体として、文字通り国家の管理体制を強化したものであった。

 同法の国会上程と施行については、不十分な審議、強行採決、内容上の諸問題、「紛争」規定の曖昧さ、教職員の身分保障等々において、当初から大学関係者より批判ないし反対の声が強く挙がっていた。例えば、四十四年六月二十五日に国立大学協会会長奥田東は「『法案』の取り扱いについては特に慎重を期せられるよう要望」との談話を発表し(『戦後日本教育史料集成』第九巻二四三頁)、更に七月七日には日本学術会議が「大学の運営に関する臨時措置法案に対する見解」を発表、法案は、第一に、将来の大学制度および管理運営体制の改革へ向けての第一歩を実現し、第二に、紛争収拾の名において大学に対する文部省の権限を格段に強化することを狙っていると批判し、憲法や「学校教育法」の基本理念を否認するものとの認識を示した。また、法成立後、「大学立法に反対する全国大学学長の会」は、「大学法はその内容、成立の過程からみてわれわれはこれに深刻な不信感をもち、到底承服できない」、「全国各大学に緊密な連絡をとり、各大学の実情に応じ、この法の施行に関する各段階でこれに協力しない姿勢をとる」(同書同巻二五二頁)とまで言い切ったのである。また、マス・コミも、「『大学法』の運用は慎重に」(『毎日新聞』八月七日号「社説」)、「大学措置法の施行に監視の目を」(『朝日新聞』八月八日号「社説」)など、批判の論を展開した。特に『朝日新聞』は、法律は実行性に乏しく紛争を激化させるに過ぎず、法律を強行に執行しようとすれば警察力に頼まざるを得ないこと、紛争の原因は根深く、形態も多様であり、画一的な強制では問題解決に進まないこと、混乱は新しい大学が生れるための過程であり、現行法でその暴力的形態を押さえながら忍耐強く創造の芽を育てなければならないことを論拠に、法案反対の論陣を張ってきたのである。

 施行された「大学運営臨時措置法」をどのように評価するかは難しい。種々の論議や批判があったことは前述の通りであって、何ら紛争の根本的解決を導くものではなかったことは確かである。しかし、同法が紛争の収拾、教育の正常化に一定の役割を果したことも事実であった。同法は「その施行の日から五年以内に廃止するものとする」(付則第五項)と定められていたが、五年後にはいつの間にかその生命を閉じていたのである。ここで想起されるのは、ハーヴァード大学教授リースマンの言である。すなわち彼は、「正当な権力行使と、強権的な権力行使とは、明確に区別してかかる必要がある」とし、「この種の立法措置は、一種の『息抜きの場』を提供するものであり、真の問題はこれからそのわずかな息抜きの時間の中で、日本をはじめとする産業諸国の高等教育が直面している本質的問題の解決に、いかに取り組まれるか、という一事にかかっている」(喜多村和之宛リースマン書簡、『大学への旅』八九頁)と述べているのである。「正当な権力行使」とは何かが問われなければならないにしても、硬直した議論が多い中で、留意されてよい指摘であろう。

 いずれにしても、「紛争」と「立法」とが提起した歴史的意義の一つには、大学の大衆化の中で、各界各層の人々にさまざまな大学論や問題の提起や政策などを提示させることになったという点にあるように思われる。政党、財界などからの発言の例を見よう。

 先ず、各政党の紛争認識やその解決策については、自由民主党の場合は、「『新しい大学像』について――坂田構想――」(四十三年十一月十五日)、「大学問題に関する中間報告」(同年十一月二十九日)、「『大学秩序回復臨時措置法案』要綱試案」(四十四年三月五日)、日本社会党の場合は、「新たな大学創造へ」(四十三年十二月四日)、「当面する大学問題に対する党の方針」(四十四年五月十四日)、民主社会党の場合は、「大学問題に関する中間報告」(四十三年十二月七日)、「大学基本法」(同日)、公明党の場合は、「大学問題についての提言」(四十三年十二月二十五日)、「大学紛争解決のための方策」(四十四年五月十二日)、日本共産党の場合は、「当面する大学問題解決のために」(四十三年十一月十日)、「当面する大学問題の解決方向について」(四十四年五月十八日)などによって窺い知ることができる。当然のことであるが、紛争解決に関する与野党の構図は、「大学運営臨時措置法」を支持する与党・自由民主党と、これに反対する野党という形になっている。いずれにしても以上の諸案は、大学問題が各党の大きな関心事になっていたことを示しており、政治問題となっていたことがよく分る。

 では、大学改革はどのように構想されたであろうか。自由民主党の大学像は、基本的には、第三節に後述する中教審答申、筑波大学・放送大学の開設などに見られるが、全体として、(一)特殊法人としての新教員養成大学の新設、(二)教員給与の免税・待遇引上げ(四十七年七月、文教制度調査会・文教部会改革試案)など、教員養成機関の充実に関心を寄せ力を注いでいると指摘できる。なお昭和五十一年六月、自由民主党より分離・結成された新自由クラブは、昼夜開講の三年制地域カレッジ、五年制大学の創設などを構想している。これは地域の特色を生かした、多様な性格を持った大学の創設を意図したものであった。

 これに対し、野党第一党であった日本社会党はどのような構想を持っていたのであろうか。同党は、大学の現状を、学部教授会に限定された大学自治と閉鎖的な講座制とが体制側エリートの養成所化を促し、学問研究の創造的発展を阻害している一方で、マス・プロ大学の企業化と専門労働力養成所化が進んで人間疎外や資本への隷属を招来していると把え、「国民大衆に開放された大学」「社会進歩の原動力としての大学」の創造を訴えている。そして当面改革が必要な具体的問題として、(一)大学の自治、(二)研究・教育体制、(三)諸条件の整備改革、(四)私立大学の充実・強化、(五)医学教育の改革の五点(四十三年十一月二十五日「日本社会党大学問題特別委員会報告」『新日本教育年記』第五巻 五九五―五九八頁)を挙げるとともに、将来の高等教育の問題として、(一)社会人入学のための別枠制度の設定、(二)社会人の学習機会を保障する国公立短大の創設、(三)昼夜開講制、(四)系統的・継続的・計画的な公開講座の設置と学位取得証明の発行、(五)放送大学と通信教育の充実の五点を挙げている(教育の戦後史編集委員会編『新たな教育改革を求めて』(『教育の戦後史」第四巻)二〇〇頁)。

 次に、政府・与党の文教政策に大きな影響力を持つ財界側は、大学問題をどのように認識し、高等教育のあり方をいかに考えていたのであろうか。日本経営者団体連盟(日経連)と経済同友会を例に取り上げよう。

 先ず日経連であるが、四十四年二月二十四日「直面する大学問題に関する基本的見解」をまとめ、文部大臣に提出している。その見解によれば、大学紛争の特徴は「特定の政治勢力が、研究・教育の場としての大学に対して自己の主義・主張を無限定に強要し、大学を政治活動の基地として利用していることにある」とし、従って紛争は「一九七〇年代の安保改定問題とも密接な関連をもつ反体制運動としての性格を色濃く持っており、その意味では、政治運動としての大学紛争は、こんごさらにエスカレートして行く可能性が強いとみざるを得ない」と、完全に政治問題と把握している。そしてこのような状況に立ち至った原因、背景として、次の諸点を指摘する。(一)変貌する産業社会に適応する柔軟な姿勢を失った大学の古い体質、特に、権威主義、封建的師弟関係、責任所在の不明確さ、管理能力の欠如、終身的身分保障制度、(二)大学自体の問題から生れる過激分子への心情的同調者の輩出、(三)日教組のイデオロギー的偏向教育、(四)急激な物質文明の発展と氾濫に反比例して形成された精神面の欠如した人々、そして反体制運動と結合した人間性回復運動の存在。次いで警察力による秩序回復、暴力学生処罰の肯定、紛争校の休・廃校を論じ、大学のあり方に関しては複線型教育体系を主張、大学院大学は高度な学術研究を目指し、大学学部・単科大学は職業専門教育を目標とし、短期大学は一般教養の修得に専念するとしたほか、教員養成大学、特殊大学(芸術など)の設置を求めている(『戦後日本教育史料集成』第九巻一六三―一六七頁)。更に日経連は、「教育の基本問題に対する産業界の見解」「教育の基本問題に対する提言」(四十四年九月十八日)、「産学協同関係に関する産業界の基本認識および提言」(同年十二月十五日)などを発表、(一)大学と産業界双方の代表者で構成される協議会の設置、(二)大学相互間、大学・産業界・政府間の提携と組織化、(三)産業社会への要請に応えるための「開かれた大学」への大学の脱皮、(四)大学院の拡充と新構想による研究大学の設置、(五)私学への積極的国庫補助などを提言している(「基本認識および提言」同書 同巻 一九四―二〇二頁)。ここには、大学を産業界に従属させるべしとの強い要求が露骨に現れている。

 次に経済同友会である。同会は四十三年十一月十五日に「大学の基本問題(中間報告)」、および経済同友会教育問題委員長所見「大学問題の背景と基盤」を公表しているが、重要な提言は、四十四年七月十八日に発表した「高次福祉社会のための高等教育制度」に盛られている。この提言は、紛争に関しては「教育問題であると同時にきわめて政治的な問題」として把え、一部学生の暴力行為は「治安問題として断固処理されるべきもの」と断定する。そして紛争の第一義的責任、直接的原因は大学自体の古い体質にあるとしつつも、学生の不満は「社会に対する不満も含む」と述べ、「青年に健全な理想すら与えられぬ社会のあり方こそ問われるべきである」とも指摘する。そこから説かれるのが、国民的目標としての「高次福祉社会の建設」と「新しい社会における道徳的価値の確立」であって、「この変革にある現代社会と現代文明の進むべき方向を総合的に把握し、変革期の社会の矛盾と病理を解明しつつ、高次福祉社会実現のための全人的な人間形成を可能とするような大学に脱皮すること」を大学に求め、最後に、「大学制度改善の提案」として、(一)大学の法人化(国立大学は当面特殊法人化)、理事会制度を導入した責任体制の確立、(二)国・公・私立の区別の廃止と民間・公共資本の導入、(三)経理の公開と公認会計士の監査・証明の義務化、(四)教授の終身雇用制の廃止と契約制の実施、(五)待遇・研究条件の大幅改善、(六)入試制度と進級制度の抜本的改善、(七)奨学資金制度の拡充とそのための予算・税制の改革、(八)大学管理運営専門家の養成(同書 同巻 一八〇―一九四頁)を提唱しているのである。

 以上の諸論議は、国の文教政策にどのように反映されていくのか。次に、実態について見よう。

三 大学大衆化時代の文教政策

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 紛争解決という当面の課題も併せ、高等教育の大衆化という状況を迎えての教育のあり方に関し、前節で見た如く各界各層よりさまざまな意見が出された。大学問題について、大学関係者はもとより、政党・財界人などそれ以外の人々が、これほど大学問題に関心を寄せ議論をした時は未だかつてなかったのではあるまいか。しかし、政治問題としての認識から来る治安優先策、批判のための批判、理念や理想の提起、イデオロギー的思考、楽観論、利己的判断などが多く、議論は十分に嚙み合わなかった。全体としてそれらの論議は、発想が単眼的・近視眼的で、広い視野に立ちつつ柔軟性を以て状況に対応し且つ国の大学政策として筋の通っている、というような高邁な識見に富む意見は見出せなかった。そして現実には財界人の要望を多分に取り入れた政府・与党自由民主党主導の文教政策が採られていく。

 高等教育大衆化という状況下での教育実践に関し一定の問題提起をしたのは、昭和四十六年六月十一日、中央教育審議会が文部大臣に答申した「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的政策について」(以下「中教審答申」あるいは単に「答申」と略記)である。それはいかなるものであったのか。

 答申は、四十二年当時の文相剣木亨弘が諮問してのち、灘尾弘吉を経て坂田道太文相時に出されたもので、結論を得るまでに四年余の歳月が費されている。記すまでもなくこの時期は、大学紛争が最も激化した時であって、その意味でもこの答申は、以後の関係者の教育への展望・改革を知る上できわめて興味深いものである。答申の構成は、今後の学校教育の基本構想を述べた第一編「学校教育の改革に関する基本構想」と、その基本構想を実行に移す際に政府の採るべき政策目標を掲げた第二編「今後における基本的施策のあり方」から成り、他に参考資料として「総合的な拡充整備のための資源の見積もり」が載せられている。このうち特に高等教育に関して触れられているのは、第一編第三章「高等教育の改革に関する基本構想」全二節である。

 先ず第一節「高等教育改革の中心的課題」では、(一)高等教育の大衆化と学術研究の高度化の要請、(二)高等教育の内容に対する専門化と総合化の要請、(三)教育・研究活動の特質とその効率的な管理の必要性、(四)高等教育機関の自主性の確保とその閉鎖性の排除の必要性、(五)高等教育機関の自発性の尊重と国全体としての計画的な援助・調整の必要性が、それぞれ論じられている。次いで第二節「高等教育改革の基本構想」では、(一)高等教育の多様化、(二)教育課程の改善の方向、(三)教育方法の改善の方向、(四)高等教育の開放と資格認定制度の必要、(五)教育組織と研究組織の機能的な分離、(六)五種の高等教育機関(「研究院」など)のあり方、(七)高等教育機関の規模と管理運営体制の合理化、(八)教員の人事・処遇の改善、(九)国・公立大学の設置形態に関する問題の解決の方向、(十)国の財政援助方式と受益者負担および奨学制度の改善、(十一)高等教育の整備充実に関する国の計画的な調整、(十二)学生の生活環境の改善充実、(十三)大学入学選抜制度の改善の方向が議論される。

 因に、第一編のこのほかの章は、第一章「今後の社会における学校教育の役割」、第二章「初等・中等教育の改革に関する基本構想」で、全体として答申は高等教育の改革に重点を置いたものとなっている。内容についてはほぼ想像がつくと思われるが、第一編第一章で論じられている高等教育の「多様化」についてのみ記しておくと、次の五つの教育機関が構想されている。すなわち、第一は大学で、三ないし四年程度の年限で教育を施し、総合領域型・専門体系型・目的専修型の三種に分ける、第二は短期大学で、年限を二年とし、教養型・職業型の二種に分ける、第三は高等専門学校で、五年程度の一貫教育を施す、第四は大学院で、二ないし三年間高度な学術研究に取り組み、研究者養成よりも専門職業人養成に重点を置く、第五は研究院で、学位取得のための高度な学術研究に専念する、というものである。

 以上の内容を持つ中教審答申はマス・コミでも大いに取り上げられ、明治期、および第二次世界大戦後期の改革に相当する「第三の教育改革」と喧伝された。社会的諸状況から見れば、そうあって然るべきものであった。しかし、実際にはどうであったのか。

 高等教育改革構想に関しては、(一)「多様化」の名の下に大学格差を一層拡大し、大学に相当する部分を職業教育中心の教育機関に改組する方向を打ち出している、(二)「開かれた大学」と称して、独占資本の大学利用(いわゆる「産学協同」)を容易にすると同時に、設置者の権限を強化して大学の自治を規制しようとしている、(三)高等教育をより有利な職業選択のための研修と見る「教育投資論」の考えを採り、「受益者負担」と称し学費の父母負担を大幅に増やそうとしている、といった批判が早くから見られた(『日本の大学 その現状と改革への提言』六五頁参照)。また、構想実現には膨大な財政支出を必要としたことから「画餅に等しい」と言われ、確かにそのまま構想通りには前進しなかった。しかし、答申で示された意見に沿った改革が、文部省によってやがて進められた点があることには留意しておく必要があろう。中教審路線と呼ばれるものであるが、新設、改革、改変という三つの形を採り実現を見ているのである。

 先ず、新設という点では次のことが挙げられる。第一は、筑波大学の開校である。同校新設の方針は、日本の教育界に大きな足跡を残してきた東京教育大学の廃校という前提に立ち、中教審の答申書作成と併行して検討が進められてきた。すなわち、昭和四十四年十一月二十一日には、「筑波研究学園都市新大学創設準備調査会」が設置されていたのであって、中教審答申によって具体化が加速、四十八年九月二十五日「筑波大学設置法」(法律第百三号)が可決され、翌月十月一日には開学の運びとなったのである。同校が従来の大学と性格を著しく異にする点は、大学院と大学(学部)との分離、大学院における修士課程(職業人の養成と社会人の再教育機関)と博士課程(研究者養成)との分離、文部省による大学管理の徹底化などであったが、特に組織と教育のあり方には、政府の新大学設置にかけた理念が如実に反映されていた。すなわち、教授会の廃止、管理責任体の所在を明らかにする副学長制度の導入、学外者を構成委員とする参与会の設置、人事委員会による教員選考、学部制の廃止と学系・学群の新設、学生の自治活動の抑制、助手の廃止、非常勤研究員制度の採用、教員養成大学という目的の明確化などである。

 第二は、放送大学の設立である。同大学の設立案が、テレビの普及などを活かし、社会人への大学教育普及を図ることを目的に、新構想大学の一環として具体的に考えられるようになったのは昭和四十四年九月頃で、翌四十五年三月十七日、放送大学準備調査会は単位取得、卒業問題など具体案を公表、更に六月八日には、学部学科制に代る系・コース制の導入および教科内容などを発表した。また、七月二十四日には目的、法的性格、入学資格、教育方法、運営組織など、基本構想をまとめ、報告書「放送大学の設立について」を文部大臣に提出した。このスピーディーな作業準備は、開設目標を昭和四十八年度に置いていたからであった。しかし、当初の開設予定年は、石油危機、狂乱物価などの社会的不安、首相田中角栄の金脈問題などをめぐる政治的混乱、教頭法制化や主任制度化などをめぐる文部省と日教組との激しい対立、既存の大学との関係調整等々により大幅に遅れ、関係法が成立したのは五十六年六月、「特殊法人放送大学学園」として開学したのは五十八年四月一日である。なぜこれほど遅れたのか。その原因としては、前述のような要因に加え、「電波を主管する郵政省と文部省側との調整や管理運営方法など難問も多く、政治がらみ」(『新たな教育改革を求めて』(『教育の戦後史』第四巻)二二七頁)であったこと、および関係者に生涯教育、社会人の学習環境の整備という問題への関心や基本的ヴイジョンがなく、従って早期開設への情熱が稀薄であったことが挙げられよう。

 第三は、教員養成大学の設置である。この大学の開設の具体化が図られたのは先の中教審答申においてであって、「目的養成型」の教員養成大学の設置が提案され、やがて教員の養成とともに現職教員の研修を主な目的とする教員養成大学院大学の創設が提案されるに至るのである。そしてこの方針を実現すべく、文部省は四十八年五月十二日、「新構想の教員養成大学等に関する調査会」を発足させ、更に翌年六月、「教員のための新しい大学・大学院の構想」をまとめ、この基本構想に基づいて兵庫と上越に二つの教員養成大学創設の計画を進めたのである。関係法が国会で承認され正式に設立の決定を見たのは五十三年六月で、最終的には大学名は当初の案「教員大学」または「教員大学院大学」が「教育大学」と改められ、同年十月上越教育大学(学部学生受入は五十六年、大学院生受入は五十八年より)と兵庫教育大学(学部学生受入は五十五年、大学院生受入は五十七年より)がそれぞれ正式に開校した。なお、五十六年には鳴門教育大学が創設され、ここに新構想による教員養成大学創設計画は一応終止符を打つ。これらの大学での管理・運営は、いわゆる「筑波大学方式」が採られているが、一連の施策は、「一九五八年の中教審『教員養成制度の改善について』以来の教育政策の一つの帰結点」(『日本の大学 その現状と改革への提言』一三九頁)であった。

 次に、改革という視点で見ることができるのが、入試制度についてである。文部省が入試制度の改善を本格的に検討し始めたのは、「大学運営臨時措置法」を施行した昭和四十四年であるが、受験勉強の熾烈化に伴う正常な学習体制の破壊、大学大衆化に伴う併願者の増加(文学部から理学部・工学部まで受験するという無差別受験の現出)、一回限りのペーパーテストによる機械的選別、難問・奇問・愚問の蔓延など、入学試験のあり方についてはいろいろな問題があり、見直しの必要が各方面より指摘されていた。この改革への機運を促したのが、翌四十五年に公表された「日本の教育政策に関するOECD調査団報告書」である。すなわち同報告書は、「日本では、学生の先天的能力の開発よりも選抜に重点をおく傾向がほとんどあらゆる教育段階でみられる。この傾向は、大部分が高等教育の階級的な性格と大学入試制度のためと思われる。……大学入学は、十八歳ごろに受けるたった一回(繰返し受ける人もあるが)の試験によって決定される。このことは、その年齢以後の教育とともに、その年齢以前の教育を大いにゆがめている」(『戦後日本教育史料集成』第一〇巻 一四二頁)と指摘し、入試のあり方が日本の教育の中心的問題であるという認識を示し、従って報告書もここに力点が置かれて作成されたのである。

 かくして中教審は、右報告書の趣旨を斟酌しながら、四十五年四月、(一)大学ごとの学力検査の廃止、(二)共通テストの実施、(三)内申書の重視という入試改革案の骨子を発表、以後、改革案の検討がなされた。そしてこの経緯を受けて文部省は四十八年九月八日、国立大学共通一次試験を五十一年度より実施することを決定、予定通り実行するとともに、受験に際して従来の一期校・二期校の区別を廃止するなど、制度の変更も実施したのである。その結果はどうであろうか。国立大学受験機会の減少、受験科目の増加、共通試験が予備選抜化するなどのほか、偏差値による大学入試難易度の明確化と大学のランクづけが進み、進学校選定に際しての受験生の没主体化は進行するなど、入試をめぐる課題が却って拡大・拡散したように思われる。とりわけ偏差値重視の教育が高等学校や中学校でも一般に行われるようになり、その結果偏差値による振い分けは、単に国公立大学進学希望者のみの問題ではなくなり、私立大学への進学希望者をも一律に輪切りするという悪弊を産むことになってしまったのである。

 では、改変が図られたというのはどのような点か。それは大学における一般教育の問題と単位互換制度の問題である。前者については、四十五年八月三十一日に「大学設置基準の一部を改正する省令」として出され、従来人文・社会・自然の三分野各三科目合計三十六単位の取得が必要であったものが、十二単位までを外国語科目、基礎科目ないし専門科目の単位で代えることが可能となった。これは、二九三頁に前述した一般教育科目の縮小を加速するものである。また、後者に関しては、四十七年三月十八日の「大学設置基準の一部改正する省令(単位互換制度)要綱」により、他大学の授業科目の履修が認められるとともに、三十単位までを当該大学で取得したものとして認定されることとなったのである。これは学生の多様なニーズに応えようとしたもので、高く評価できる一つの改変であったと言ってよい。この二つの見直しの方向は、その後一層促進される傾向にあるが、今後の問題は、各大学における自主的な改善への努力を、文部省がどこまで認めるかということにあるように思われる。なぜなら、国の文教政策に関して全体として言えることは、管理と教育、特に教師養成問題が重視されているように考えられ、高等教育の大衆化という社会状況への対応は軽視ないし等閑に付されてきたと指摘できるからである。

四 新しい大学理念の摸索

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 昭和四十年代中・後半期に顕著となった社会構造・国民意識の変容は、大学の機能や社会的存在の意義を厳しく問う契機となり、まさにこの時期は「改革の季節」と呼ばれるにふさわしかった。大学改革の難しさは、理念と現状との調和の図り方にある。現実の諸状況を無視し、理念・理想を求めるだけでは大学存立の説得力が弱く、逆に、現実に迎合するあまり真理の探求・学問追究の使命を放棄したのでは、これまた存立の意味を欠く。この点については、次の指摘に留意しておきたい。

ヨーロッパ中世の発明いらい、八百年の歴史を通じて存続してきた大学制度は、アシュビーの表現を借りるならば、「自己自身を各時代の環境に適応させると同時に、その伝統的パターンを、同一性を失うことなく十分にもちつづけた」〔エリック・アシュビー著、島田雄次郎訳『科学革命と大学』六頁参照〕社会制度の一つであった。大学は、一方ではあくまでも過去から受け継いだ伝統的な自己の本質を守ることに固執しながら、他方ではたえず歴史的環境の変化に応じた自己革新に迫られるという、二重性格的調整機能の反復を通じて、今日までその生命を維持し、あるいは発展させてきたのである。

(清水義弘編著『高等教育の大衆化』(『現代教育講座』第九巻) 一三九頁)

社会状況の変容に応じた大学改革といっても、組織・機構の面はともかく、教育という営みに与えられた使命や普遍的価値・理念、その価値を獲得するための方法などを変えることは容易ではない。また安易に変えるべきでもない。

 日本における大学制度の変革は、一般に「外圧と内部的危機の結合という歴史的条件の下で、まず外部からの圧力として生じ、学外者のイニシアティヴによって遂行されるというパターンをたど」り、この「『外から』の圧力と『上からの』主導」に対し、大学は「強硬な反対運動を組織して変革を阻止するか、抵抗に遅れをとって止むなく強行された新制度に組み入れられるという受身的な立場」に立たされてきたという歴史を持っている。その意味では、昭和四十年代半ばに、我が学苑を含む実に多くの大学で作成された改革案は、政府主導の「中教審改革路線」に対し、主体的に行おうとした「自主改革路線」の実施であり、「大学内部からの改革運動というポジティヴな反応が発生した希有な事例」(同書 一六〇頁)と位置づけられる。

 しかし、課題の解決が容易でなかったことは、どんなに強調しても強調し過ぎることはない。問題はそれほど困難であったのである。既に述べたように、特に大学大衆化の主役を担った私立大学においては、さまざまな問題を内包するに至った。第一に、学生数の増加に伴い研究・教育条件の劣悪化はますます避け難くなった。第二に、第一の問題解消のために採られた学費負担の急増は、教育の機会均等を妨げる結果を生みかねなかった。第三に、入学者の中の多くが、大学の伝統や学風、建学の精神に共鳴して入学したわけではない「偏差値配分」者であってみれば、学習意欲の低下は免れず、教員は先ず学生に勉強することへの関心と喜びを発見させる努力から着手しなければならなくなった。「かつての少数のエリートを対象としたアカデミックな大学では、……教授の研究生活がそのまま教育となり、学生と教授とのあいだには学問研究を媒体とした尊敬と信頼が成り立った。しかし、今日はそうではない。マスプロ教育では教師と学生との接触はきわめて限られており、学生の学問や教師に対する尊敬も失われがちである。研究と教育とが自動的に両立するといういわば予定調和的な考え方はもはや通用しない」(『日本の大学 その現状と改革への提言』八二頁)という新しい状況は、直視しなければならなかった。このような中で教師に求められるものは「講義のわかりやすさ、学生のレクレーションに参加すること、『厚生補導』にも力を注ぐこと」であり、また「学内の各種委員会の委員として諸会議に出席し、時には学生との『団交』にも参加」(同前)することであった。かつて河合栄治郎は、研究者・教育者・市民としての活動、行政マンとしての資質の保持を大学教員に求めたが、大衆化した大学においては教師としての務めを果すだけでも手一杯の状況となったのである。

 いずれにしても、このような事態の中で大学はそれなりに改善への努力を重ねた。このことは認められなければならない。

 先ず、狭義の大学大衆化という現象に対しては、第一に、組織・運営の民主化など学内の機構改革、第二に、経理の公開・明確化、第三に、カリキュラムの改編やゼミの増加など教育面の改善、第四に、入試の工夫などが、一つの方向として挙げられる。第一点および第二点は大学紛争の提起した問題を直接反映するものであって、第一点に関しては、(一)大学の構成・運営(東京大学と七学部代表との確認書)、(二)学長・学部長の選出(東京都立大学総長選考規程、同大学人文学部長選考規程など)、(三)学部・教室の運営(北海道大学教育学部運営協議会内規、名古屋大学医学部運営協議会内規、名古屋大学物理学教室憲章)、(四)教授会の構成(北海道大学教育学部教授会内規)に、第二点については、東北大学概算要求規程案、同大学概算要求に関する内規などに、改革の足跡が見られる。第三の問題に関しては、前節で触れた「大学設置基準」の改変が大きな効果をもたらしており、学生の多様化への対応が図られている。また、第四の点については、推薦入学制の導入や内申書の重視など、改善の努力が払われてきている。ただし、「一芸に秀でたもの」という理由で、およそ大学教育とは無縁の「個性」を重視して入学を許可するなど、その見識に疑念を抱かせるような入学制度を採用した大学も見られる。

 次に生涯学習の要求など大学の社会化、すなわち社会的機能充実の要請については、(一)通信教育の拡大と改善、(二)夜間部の設置、(三)聴講生・研修生・研究生制度の拡大、(四)社会人入学枠の設定など特別入試制度の導入、(五)市民講座や開放講座の開設、(六)社会教育施設との提携など(同書三一―三二頁)、さまざまな施策が採られてきた。

 このような大学自身の改革努力についての評価は軽々には下せない。「改革の季節」という言については、「正しくは改革『論議』の季節だったというべきだろう。なぜなら大学のあり方に、学生たちによって根本的な疑問が投げかけられ、学生と教員、教員と教員の間で激しい議論がくり広げられ、おびただしい数の改革案がつくられたものの、ほとんどが実現されぬままに終わったからである」(天野郁夫「大学の教育革命/根底の理念めぐる騒然たる論議を」『朝日新聞』平成七年九月三日号)という指摘がある。この見方は当時の現実をある意味では言い当てている。

 ある意味ではというのは、実現がその後の課題として残されたと解釈した場合ということである。論議が実行に移されるにはそれなりの状況が醸成されなければならない。即効を期待するのは無理である。論議が改革に結合していった例は、前述のように数多く見られるし、また議論があったからこそその後の改革へと連動していったことを過小評価すべきでない。歴史的課題に耐える真の大学改革は、社会の要請、国家の文教政策、大学関係者の三者が価値理念を共有し、改革意欲に燃え、互いに尽力し、かつ漸進的に図られた時にのみはじめて実現されるものである。このことに思いを致し、第一節で指摘した少くとも四つの問題点を念頭に置いて紛争期以降の諸改革を考える時、問題は多分に三者の整合性が見られなかったところにあるように思われる。

 特に大学大衆化の責めを負い、マス型大学への移行が産み出した諸矛盾をもろに背負うことを余儀なくされた私立大学においては、建学の理念と、その理念の下に培われてきた伝統とを維持しつつ、どのように問題を処理しながら時代の要請に合致した大学として発展させていくのかが、厳しく問われた時期でもあった。この点について若干言及すれば、紛争期に真剣に改革に取り組んだ例として、立命館大学や関西学院大学を挙げることができる。例えば昭和四十四年、「改革のための討議資料」を作成した立命館大学では、その中で、「大学が量的に増大し、マンモス化するとともに、大学の画一化の現象が生じた。大学は個性を喪失し、平均化と規格化が結果しつつある。どの私立大学でも、創設期の建学の精神が喪われつつあることを見ても、それは明らか」という状況を認識した上で、私学管理運営の矛盾や立命館教学体制を議論している(『大学政策・大学問題』三四三―三五七頁)。また同年、関西学院大学では、「私学たる関西学院大学においては……人間の生の問題といかにかかわるかを示す精神的支柱としての建学の精神がある」と指摘し、「現代の学問と教育の当面する問題について、キリスト教主義の立場から一つの明確な克服への視点を示唆しうるものでなければならない」と、同大学の建学理念を再確認するところから、時代に対応した大学存立の理念を模索している(同書 三五八―三六三頁)。

 翻って我が学苑では、改革の舵取りの任に当った総長は、時子山常三郎(第九代、昭和四十三―四十五年)、村井資長(第十代、四十五―五十三年)、清水司(第十一代、五十三―五十七年)である。総長就任に際し、各人が大学運営に当っての基本姿勢として述べた言葉は、「三大教旨の現代的解釈の実践」(時子山、第十一編第二章)、「学問の調和、自主的努力による研究・教育条件の向上」(村井、第十一編第五章)、「学術・文化の創造とその発信基地」(清水、第十二編第一章)であった。いずれも、時の状況の求めに真摯に、積極的に応えようとするものであった。その取組みはいかなるものであったのか、どのような努力がなされたのか、いかなることが解決されたのか、そして何が未解決のまま残っているのか。以下の各章で、このような点が叙述される。